やまに大塚の歴史
※冊子版「やまに大塚の歴史」を元に改訂
<目次>
冊子版「やまに大塚の歴史」
発行日:2007年12発吉日
発行人:大塚善五 〒321-4218 栃木県芳賀郡益子町城内坂88
編集人:川辺幸代
発行日:2007年12発吉日
発行人:大塚善五 〒321-4218 栃木県芳賀郡益子町城内坂88
編集人:川辺幸代
益子 やきものの始まり |
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益子は古くから自然に恵まれて農業が発展した美しい町である。
広大な関東平野の奥まった北の端に位置し、ここより日本列島の北へ向けて平地は次第に少なくなる。 町の東には雨巻山を中心にした低い山並みが、南の筑波山から北の福島県まで続く八溝山地の一画をなし、西は小貝川の沖積低地を抱え、昔から稲田に利用されている。 連なる山と広々と平らに広がる水田は懐かしい日本の原風景である。 窯を築くための傾斜地に恵まれ、周囲の低山には燃料となる赤松や雑木の林が豊富であった。 八世紀の終わりには町の南の谷筋に沿って、下野国の須恵器と瓦の一大窯業地であったが律令制の崩壊とともに十世紀中頃には生産を止めている。 その後長い中断を経て江戸時代末期に至って、現在の町の中心地に近く、産業としての益子焼が産声をあげる。 文政十一年(1828年)に隣の茂木町福手で生まれた杉山啓三郎が益子町の大塚平兵衛の婿養子に迎えられる。 啓三郎は少年時代笠間の宝田院慈眼寺の住職大関雄山から寺子屋教育を受けたが、雄山は笠間箱田の窯元久野窯の経営に関わり、焼きものに詳しかったので、啓三郎も陶器作りを一通り習い覚えていた。 益子に移った青年啓三郎は益子村大津沢(地図参照)で良質の陶土を見つけ、嘉永六年(1853年)二十五歳の時根古屋(地図参照)に土地を借り、益子焼きを開業する。 これが現在に続く益子焼きの始まりである。 啓三郎は安政三年(1856年)には常陸宍戸の出身で宍戸焼きの技術を持つ上大羽在住の田中長平を陶工として招き、技術と生産の向上に努め、製陶業を本格的に軌道にのせていった。 宍戸焼きは江戸時代正保年間(1644〜47)に開窯した磐城中村の相馬焼きの流れを汲む。 啓三郎の笠間焼きは天保年間(1830〜43)に始められた焼き物であり、共に益子より長い伝統を持つ。 この結果当初より益子焼きは笠間と相馬双方の産地の影響を大きく受けたことになり、将来に渡って両地方との技術や職人の交流が続くことになった。 もう一人益子焼きの育成に手を添えたのが黒羽藩下之庄(益子)奉行の三田弥平であった。 益子在任期間は短かったが(一年三ヶ月)、彼の尽力により、安政三年(1856年)益子焼きは黒羽藩の正式な国産品に取り入れられた。 時代は明治維新(1868年)を目前にした混乱の時代である。 啓三郎が益子焼きを始めた嘉永六年(1853年)にはペリーが米軍艦を率いて浦賀(現在の横須賀市)に来航し、徳川幕府に開国をせまっている。 国論は開国か攘夷かでニ分され、屋台骨の揺らいだ幕政を担って大老になった井伊直弼は開国を決意する。 以前より水戸藩を中心に開国への反対は強く、井伊直弼が尊王攘夷派を弾圧し、多数の志士を投獄処刑したいわゆる安政の大獄が起こったのが安政五年(1858年)。 しかし井伊直弼はその一年半後桜田門外で水戸藩士らによって暗殺される。 <目次へ戻る> |
ヤマニ大塚の創業 初代 亀次郎 |
やまに大塚の創業者大塚亀次郎(1843〜1911)もまた家族と共にこの混乱の中にいた。
▲初代亀次郎 肖像画 当初亀次郎の父堀江徳右ェ門は佐竹藩の郷士として常陸国岩間(現在の茨城県岩間町)に住んでいた。 しかし、この幕末の動乱の折りに隣国の水戸藩との何らかの軋轢によって国を追われ、家族は散り散りになる。 少年亀次郎は益子の庄屋である大塚家を頼り、後にその娘を嫁にもらい、以後大塚姓を名のることになる。 大塚姓は益子で最も多い姓の一つであるが、亀次郎が寄宿したのは現在の益子町城内に在住した庄屋大塚家であった(現在の小峰窯の辺り)。 亀次郎が当初から城内の現在地に住んでいたのもこのためである。 町のほぼ中央にある高舘山山頂近くに、八世紀、益子町でもっとも古く創建された西明寺(地図参照)が建つ。 この本堂の前近くに『陶師大塚氏碑』と記された石碑がある(下記写真)。 碑の裏には五十九名の窯元の名前とその開業年が記されている。 ▲『西明寺楼門』と、境内にある『陶師大塚氏碑』。 それによると大塚亀次郎の開業は元治元年(1864年)大塚啓三郎以降益子で七番目に古い窯である。 明治維新まであと四年。初代となる大塚亀次郎が二十歳の頃の開業であった。 大塚啓三郎達の尽力により安政三年(1856年)黒羽藩の国産品に指定された益子焼きであったが、生産の奨励とともに藩の財源確保のためにかなりの運上金(税金)が課せられて、どの窯元も借金を抱え、産業としての益子焼きの道は大変厳しいものであった。 明治二年(1869年)まだ自らの窯を持たずに『借釜人』である亀次郎は『瀬戸屋』十二名、『借釜人』他二名とともに出窯までの諸入用金の貸付願を出している(益子町史第五巻窯業関係史料641頁より)。 亀次郎も新しい時代の中で火鉢から茶碗まで様々なものを作り(同681頁)、翌年には一人で仕込金貸し付けの増額願いも出し(同696頁)、若さのなかで奮闘している様子がうかがえる。 しかし明治四年の『窯元一統より瀬戸薬土(寺山土)購入費の不足分拝借願』では『釜元惣代』亀次郎となり、自らも窯元となったことがわかる(同703頁)。 明治政府が殖産興業の振興のため明治十年開催した第一回内国勧業博覧会には、窯術製品の部に山水画土瓶を出品し、以後も毎回土瓶等を出品している。 亀次郎は苦しい経営の中でも徐々に実績を積んでいく。 その後前述の『陶師大塚氏碑』の裏には、四十五歳の亀次郎は『建碑世話人』五名中の一人になるまでに大きな窯元に成長している。 この間何人もの職人が亀次郎の元で修業後、独立して窯元となった。 須藤安太郎や、明治二十一年(1888年)に弟子入りした同郷(岩間)の佐久間福次郎(佐久間藤太郎の父)も亀次郎の元からの独立であった。 訪れた物乞いをそのまま手元に置き更生させたという話も家族に伝えられている。 亀次郎の亡き後、昭和に入っても大亀(だいかめ)さんにお世話になったと話す人が町のそこかしこにいたという。 明治四十四年(1911年)に六十八歳で没するが、その時までに亀次郎は大塚製陶所を益子で有数の窯元の一軒に育て上げた。 没後の大正四年(1915年)東北窯業視察団に配布されたパンフレットには、『大塚亀次郎君、元治元年城内に陶窯を築き各地を跋渉して原料の探見をなし遂に字北郷谷に黒灰色粘土を索め益子陶器素地の改良を見るに至れり』と紹介され、その業績を高く評価されている。 同じパンフレットに亀次郎の創業した大塚陶器工場は大正三年度(1914年度)陶器生産額において一位の塚本陶器工場に次ぐ二位に名前があがっている(益子町史第五巻窯業編822頁)。 ちなみに巻末の史料一は明治四十三年(1910年)の『栃木県勧業年報』より益子の製陶所のみを抜粋したものである。生産高で五本の指の中に数えられている。 ▲ヤマニの主力製品であった山水土瓶。 亀次郎は明治10年の「第一回内国勧業博覧会」から山水土瓶を出品。明治36年の「第五回」には道太郎(当時13歳)と揃って土瓶を出品している。 亀次郎と共に大塚製陶所を大きくしたもう一人の人物は番頭の大塚昇九郎である。 創業時大塚製陶所の商号は 『ヤマニ』ではなく 『ヤマナカ』であった。 当時製品の出荷にはすべて木を削って作った荷札を用いていた。 その荷札に商品名、組合の合格印、あとは商号だけを記入すれば東京にある問屋に着いてしまう。 商号は窯元を表していた。言わば商売の表看板である。 例えば塚本製陶は 『ヤマホン』、仲買商の岩下商店は 『カネサン』であった。 ところが 中『ヤマナカ』の製品の品質が落ち、一時東京の市場から閉め出しを受けてしまった。 番頭の昇九郎はこのままの商号ではいくら製品の質をあげても一度失った信用は回復不可能だとして、商号を新しく 『ヤマニ』に変え、信用のばん回に努めた。 この商号が現在の『やまに大塚』の名称につながっている。 ちなみに当時の窯元は商号を持つと同時に小字名(こあざめい)をお互いの通り名にしていた。 大塚製陶所は打っ越(おっこし)窯、塚本は深田窯、他に新池窯、根古屋窯、円導寺窯、須田ヶ池窯などである。 従って古い史料には窯元としての名前はなく、城内亀次郎とのみ記されている。 古くは同じ大塚姓で根古屋大塚忠治(啓三郎の息子)窯、城内大塚平八窯があったが、平八窯は明治四十二、三年頃火災にあって窯を閉じた。 明治の末の史料などにはヤマニ大塚製陶所は根古屋の大塚忠治窯とともにそれぞれ大塚陶器工場と全く同じ名前で記されているので注意が必要である。 ここでは以後簡略にヤマニと呼ぶことにする。 名番頭昇九郎はその後出身地の真岡大内村に戻り、名村長としても名を残している。 明治三十六年(1903年)、現在の窯業技術支援センターの前身である益子陶器伝習所が根古屋の大塚忠治製造所内に設立された。 大正二年(1913年)には町立伝習所となり、場所を現在のヤマニの敷地内に移した。 当時皇族の梨本宮が見学された記録も残っている。 その後指導所は大正の半ば(七、八年頃)大塚平八窯の跡地に移り、昭和十三年には現在の場所に移転し、栃木県立窯業指導所となった。 <目次へ戻る> |
二代目 道之助 |
亀次郎の息子の二代目道之助(1869〜1927)は若い頃から東京に暮らしていることが多かった。日本橋牡蠣殻町に居を構え、株の売買で生計を立てていたのである。
従って実際の製陶所の仕事は早くから息子である三代目の道太郎が引き受けていた。 亀次郎から孫の道太郎への孫渡しと言える。 しかし晩年道之助は、大正十二年(1923年)の関東大震災で焼け出され、益子に引き上げてきた。 隠居所の裏庭にうなぎの生け簀を作ったり、三日に一度は酒の樽を囲んでにぎやかに宴会をしていたという。昭和二年(1927年)58歳で没。 <目次へ戻る> |
大正時代 三代目 道太郎 |
三代目道太郎(1890〜1964)が家業を継いだ明治の末から大正にかけて、ヤマニは既に益子で塚本製陶所と一、二を争う大きな窯元となっていたことは前に記した。
その中で若い道太郎はさまざまな新しい試みを益子焼きのために行った。 ▲大正7年、家族の写真。 後列左より、道之助、道太郎、道賢。 前山(地図参照)は以前から原土の産出場であったが、安定した粘土を供給するためそこに私財を投じて粘土工場を作った。 昔からの水簸(すいひ)によるものではなくミルにより粉粘土を生産する工場である。 芳賀郡内で始めて動力(発動機)を用い産業への新たな道を開いたとして大正三年には芳賀郡長より感謝状が送られたという。 釉薬の研究も実を結び『打っ越(おっこし)の釉』と呼ばれ、最近にいたるまで益子の他の製陶所で長く使われたものもある。 『なこそ釉』は亀次郎の時代からヤマニの始めた釉であったが、『栗飴釉』や『青竹釉』など道太郎が関わった釉があとあとまで益子の釉として残っていった。 ▲左:紅鉢、右:なこそ釉 生地の研究も行った。 益子焼きに特有の紅鉢という器があるが一時原土や釉の品質が落ちてきて色が赤茶けてきたことがあった。 道太郎はさまざまな試みをした後、生(なま)生地に直接白泥を掛ける方法、いわゆる生ま掛けの方法を確立した。 現在でも使われている方法である。 その後一年ほどの間に益子の窯元はみなそれに倣うようになったという。 そもそも道太郎は生まれつき進取の気性に富み生涯に三十に上る新案特許を持つほどの発明好きであった。 一年中さまざまな工具を作るために旋盤屋や木のくりもの屋、ブリキ屋などが出入りしていたという。 大正四年(1915年)から四回開催された益子品評会(後に共進会)では大正十一年の第三回と十四年の第四回に、道太郎は益子焼きの功労者として表彰されている。 しかし、努力して作り上げたものが簡単に模倣されるのに嫌気がさしたのであろうか。 道太郎は釉掛けをした従来の益子焼きから徐々に離れて、昭和に入ると次第に無釉の品物に主力製品を移すようになる。 大正の末に浜田庄司が益子に移住した際、始めに落ち着いたのは道太郎の大塚製陶所であった。 当時の伝習所所長が浜田庄司を連れてどこか預かってくれるところはないかと探し歩いたという。 その頃東京から来た若い人を引き受ける窯元はなかなか見つからなかったのである。 それを知って道太郎が引き受けた。 道太郎は「益子のためになってください」とだけ話し、現在のやまに大塚の奥にある細工場と部屋原料等を無償で提供した。 若かった佐久間藤太郎がその助手になった。 浜田は作品が焼き上がると母屋によく持ってきたという。 その後浜田庄司は佐久間家に居を移した後に昭和五年、現在の参考館の地に藁葺き屋根の農家を購入移築し終生の住まいとした。 しかし佐久間家だけではなく一ノ沢の高島家、道祖土の丸岳などに仮住まいをしながら佐久間家のろくろ場に通っていたという話がやまに大塚の家族の間では伝えられている。 益子の焼き物のみならず日本の民芸の世界に大きな影響を残し、昭和五十三年(1978年)八十三歳で亡くなったことは周知の通りである。 <目次へ戻る> |
製陶所の日々のいとなみ |
この頃ヤマニは、現在のやまに大塚本店の周囲三町歩を所有し、母屋の他に五つの細工場、十数戸の職人用の住居、三十人を超える職人を抱える益子で一、二を争う製陶所になっていた(巻末史料二参照)。
▲大正7年、揃いのはんてんを着た従業員達と家族の花見。 現在の『食事処やまに』の座敷のあるあたりには素焼き用と本焼き用に益子最大双登り二十四部屋の登り窯があり、上部は勾配がきつくて実際は使うことが少なかったものの、毎月本焼きを焼成していた。 当時土ものの産地と言えば信楽、常滑、益子だったが、信楽は火鉢、常滑は土管と塩硫酸瓶を主に作っていたので台所用品といえば益子焼きが主流であった。 ヤマニも尺三寸から尺八寸の火鉢、黒釉かまぼこ型の湯たんぽ、土釜、無頭鍋や主に北海道で使われた鍋焼き鍋などさまざまな鍋類、土瓶、砂ざら湯のみ、汁たんぽなどの蕎麦用品等々あらゆる生活用品を作っていた。 ▲左:すり鉢、右:行平 ▲左:湯たんぽ、右:目皿 当時の益子焼きは現在と違って益子の町中で売ることはできず、東京の問屋に運んでそこから全国に販売していた。 明治時代は真岡まで馬で運び、そこからは鬼怒川の水運を利用して運んだ。 水戸線が明治二十四年(1893年)に開通してからは、川島駅までは従来通り船で運び、その後は鉄道で各地に送られていった。 鉄道建設に向けた願いは大正二年(1913年)に真岡鐵道が益子、七井まで開通してようやく叶い、以後は直接鉄道で運ぶのが主な方法になった。 その後昭和の始めの頃になって内町の大山運送がトラックを使って東京への路線定期便の権利を取得し、鉄道に替わっておおいに繁盛した。 大山運送は始めは塚本製陶所専門の馬車を使った運送を請け負っていたのだが、何しろ鉄道と違ってトラックは荷造りをしないで手紙一本で済むので簡単である。 後に太平洋戦争で合併を余儀なくされて路線の権利を手放し商売替えをするまで、大山運送は行きは益子焼、帰りは東京から取手下館方面への荷物を運び、年々トラックを増やしていたという。 流通は産地の製造業、産地問屋、消費地問屋それに小売りと四段階に分かれる販売形態を取った。 益子では年に一回求評会と呼ばれる閲覧会を開きそこに消費地問屋を招いていた。 マルマツ、マルタなどその頃の問屋は日本橋に多くあったという。 こういった間接的な流通の形を取るため、地元では窯元とは別に仲買商と呼ばれる人達が間にあって大きな力を持つようになっていた。 仲買商のなかでも岩下商店は一番規模が大きく従って力も強く、道祖土にたくさんの『手窯』と呼ばれる製陶所を抱え、その製品をすべて引き受けて販売していた。 その余りに大きな力に対し、昭和五年(1930年)には職人達の組合が益子で始めて結成され、工賃の値下げに反対して数日に及ぶデモへと発展する事態も起きた。 ヤマニや塚本製陶所などは、製造と仲買の両方を兼ねていたので、いくつかの手窯とも深い関係を持っていた。 ヤマニは上大羽豆田橋の須藤製陶所、塚本は城内の武井製陶などである。 手窯の他には『独立窯』と呼ばれる窯元もあり、これは城内に多かった。 佐久間窯、大誠窯、円導寺窯、小峰窯、大折窯などがそうであり、他に内町の根古屋窯、菊池窯も独立窯であった。 使われる原料の粘土は前山や北郷谷(地図参照)から主に掘り出していた。 露天掘り以前には、松の丸太で支えられた坑道を堀り進む坑道堀りが行われた。 坑内にローソクやカンテラを下げ、もっこや一輪車で掘った粘土を運び出していたという。 露天掘りになってからは掘った後にたまる雨水の排水に苦労した。 ポンプが出来る以前はバケツリレーで汲み出さねばならなかったのである。 掘り出した粘土は四貫(約十五キロ)ずつの固まりにして馬の背に乗せ、それぞれの窯元に運んだ。 当時益子焼き職人の地位は社会的にとても低いものであった。 大工や植木など他の職人にくらべてもきわめて低かった。 この頃の陶工たちの生活について下野新聞は次のように書いている。 芳賀郡の細民調査によると真岡や茂木の労働者と並んで、『益子町には百五十戸の陶器職工あれど之等は何れも労銀安価のため悲惨なる生活状態にあり。』(大正七年八月十七日付) それ故伝習所に入って技術をおぼえようとする若者も、窯元の長男や従業員の子弟だけであった。 ヤマニが一回の窯を焼くと五百円から五百五十円になったが、職人の工賃は男で一日六十銭、女で三十五銭くらいである。 ろくろ職人の賃金は昔から工賃表というものができていて、湯のみ一つでいくらと決められている。 頑張って数を多く作っても、そのために工賃表の賃金がかえって安くなると困るので、ある程度作るとそれ以上は作らないということが多かったという。 数を多く作っても一個の工賃が安くなるだけなのである。 職人は朝六時から夜六時まで十二時間働くのが常で、秋の彼岸から春の彼岸まではさらに夜二時間の夜業をした。 給与は「預かり制度』と言って、帳面上は記載されているのだけれど実際は支払われずに、生活に必要な分だけ窯元に「貸してください」と言ってもらうのが当時の慣習であった。 米と醤油は現物支給である。 ヤマニも小作を頼んで北郷谷池の上下に所有する田んぼで毎年三十五、六俵の米を収穫した。(一俵は六十キロ) 霞ヶ浦小川町の醤油の醸造元からは大量の醤油を仕入れていたものである。 この給料の『預かり制度』を太平洋戦争末期に『給与制度』に直したのはヤマニが益子で始めてであったという。 ▲片口 ▲そば徳利 ▲小皿 <目次へ戻る> |
昭和時代 無釉のやきもの |
大正が昭和に変わる頃、十六歳になる上野幸内が田野村(現在の益子町田野)からヤマニに奉公にあがってくる。
明治時代ヤマニの名番頭と言われ、後に大内村(現在の真岡市)の村長になった大塚昇九郎を知る母親イクの強い勧めによった。 商売の道に進むことを強くのぞむ幸内は丁稚としての奉公を重ねながら製陶所のすべてのことに興味を持つ利発な少年であった。 小僧の時代から経理に関心を示し、親方道太郎にさえいぶかしく思われながらも、月のうち二十日は留守にする主人に代わり窯場の内外に眼を光らせた。 周囲の人達は「益子で一番うるさいのは打っ越の小僧だ」と噂したという。 次第に道太郎にも認められ、六年の年期奉公を終えた後も、道太郎の長女スギの連れ合いとして、同時に番頭として、親方の右腕となりヤマニを支えることになる。 当時女学校を出た大窯元の一人娘と尋常小学校を出ただけの青年が結婚することはきわめて稀なことであった。 道太郎がいかに幸内青年を頼りにしていたかがうかがえる。 ▲焼成時に窯の中で使われた小台 |
カンシャク玉 |
ヤマニのような大きな窯元が従業員をかかえ、赤字を出さずに安定した経営をしていくためには、効率良く一種類の製品を大量に生産していくことが必要であった。
多種類のものを少量ずつ生産していくよりもはるかに安定した高収益が得られるのである。 それまでヤマニもいろいろなものを手がけたが、なかなか商売に結びつくまでには至らなかった。 しかし昭和三年頃から野球の玉より一回り小さく、中が空洞のカンシャク玉と呼ばれる素焼きの玉を作るようになり、これが良く売れてヤマニの主力製品となったのである。 そもそも浅草の遠藤商会という遊具メーカーが、鬼の胸につけた勲章をめがけてカンシャク玉をぶつけ、命中すると鬼が大声を発しながら金棒を持った手を高く上げるという遊具を考えついた。 この素焼きのカンシャク玉を作ることをやはり浅草にあった陶器問屋のマルヨが ヤマニに持ちかけたのである。 始めは浅草のデパート松屋の屋上に、その後岡山や宝塚など地方の遊園地へとひろがっていき、最後には台湾や満州にまでその遊具が行き渡り、それに伴いカンシャク玉の需要も増加した。 この時ヤマニは益子で始めて愛知から自動ろくろ(足踏みろくろ)を五台取り寄せた。 このことををしばらく周囲に秘密にしておくため、運ばれるろくろを益子駅ではなく手前の西田井駅に到着させたという。 この自動ろくろを使って従前の職人に作らせると一個いくらと工賃が決まる。 しかしベテランの職人はある程度まで作ると工賃を下げないようにそれ以上は作らないと考え、これを小学校卒業者を雇って作らせることにした。 当時としては徹底した機械化合理化で一人一日三千二百から三百個のカンシャク玉を生産した。 燃料や梱包にも工夫をこらした。 素焼きで済むため小さい単独窯で焼くのだが、薪である程度温度を上げた後に、松山の松を伐採した後残る松葉を縄でくるんでそのまま窯にほおり込むのである。 瓦を焼く窯にならったのである。 梱包も木箱に詰めて送ると鉄道便の積み替え時に大量の破損が出た。 そこで取り扱う人の気持ちを逆手に取って、まず蓑(みの)にカンシャク玉を百五十個づついれ、それを二袋炭俵に入れてから、中央を縄でゆるくしばるのである。 持ち上げるとグズグズと音がしてかえって丁寧に扱われ破損も大きく減った。 カンシャク玉の値段は一個六厘、一俵三百個で一円八十銭。 当時の一日の手間賃が男六十銭であったからヤマニの製品の中では一番利益を上げたと言える。 しかし戦争が激しくなると共に娯楽にかかわることが次第に禁止されるようになり、鬼が消えるとカンシャク玉もまた消えていった。 |
ヒョットコ |
三代目道太郎は生涯に三十に上る新案特許を取るほど、生来新しいものに挑戦することが好きであったことは前に述べた。
焼きものに様々な工夫をする中で、道太郎の興味は次第に燃焼器と呼ばれる焼きものの分野に収れんしていく。 燃焼器とは、現在のようにガスや電気を使って家庭の暖房や台所用の熱源をまかなう以前に使われていた炭や練炭、たどんなどを使用する場合の、コンロなどの総称である。 その頃燃焼器といえば三州産(三河国、現在の愛知県)で、耐火度のある褐色の粘土を使った燃焼器をさかんに作っていた。 これに対抗してヤマニの商品として軌道に乗ったものがヒョットコとサナであった。 ▲ヒョットコ、および新案特許を得たヒョットコの口。針金付きの蓋をつけることで、火力を調整し、置き場所も不要。 ヒョットコとは火鉢の中で練炭を使う際、練炭の下に置いて灰の中に埋め、口の部分から空気を確保する通風器のことである。 空気を取り入れる口の形からヒョットコと呼ばれた。 通風口の部分を手起こしのタタラで作っていたが、当時住宅用の碍子を生産していた会津若松から手動式の絞り出し器を導入するとともに職人二人を雇い入れ、製品の半自動化に成功した。 粘土は関西から耐火性のある木節(きぶし)粘土を買い入れ、益子の土と混ぜて使用し、半倒炎式の窯で石炭を燃料にして九百二、三十度で焼成した。 三州産は赤かったのに比べ、ヤマニ製は真っ白であった。 更に通風口の空気の量を調節する蓋を紛失しないための針金の工夫で新案特許を取った(前頁図参照)。 これにより静岡以北の燃料会社はほとんどヤマニのヒョットコを使用するようになった。 家庭用火鉢の四寸径が主力で、業務用五、六寸径が全体の二割程であった。 季節商品ではあったものの、ヒョットコも、主力商品となったのである。 |
耐火サナ |
昭和十六年(1941年)太平洋戦争に入ると、鉄を始めとする金属を軍用に供出しなければならなくなり、金属に替わる様々な代替品が必要とされるようになった。
コンロ用耐火サナもその一つである。 しかし従来の鋳物サナに代わって焼きもので製品を販売するためには、商工省の『指定代用品登録申請試験』に合格しなければならない。 そのための急熱急冷の厳しい試験に合格したのはヤマニと岡山の三石ローセキという会社だけであった。 とにかく商工省発行の価格表示証紙を貼付しなければ売ることができないので、いわば独占販売である。 ところが始めのうちはこのサナはさやに入れて焼かないと焼き割れができてしまい、更に焼いても完成品の歩留まりが非常に悪かった。 ちょうどその頃燃料会社マホーコンロ北関東総代理店から、千葉工場に京都陶芸試験場の指導で変わった窯が築炉されたとの話がもたらされた。 早速見学に訪れると、焚き口の上に煙突を持ってくるいわゆる『イッテコイ』窯であった。 『イッテコイ』窯は従来の窯の作りから見ると常識外の構造であったが、これは優れた窯と判断し すぐに益子の築炉業者原島氏に来てもらい、急いで造り上げてもらった。 この窯は製品の歩留まり九十八%という予想外の好成績をもたらした。 松薪を燃料とする裸焼きにもかかわらず、びっくりする程平均して焼けたのである。 ▲耐火サナ(径4寸、厚さは5分程) |
骨壺 |
太平洋戦争の戦況が激化の一途をたどるなか、宇都宮第十四師団から益子の陶器組合に戦死者用骨壺の納付命令が下った。
高さ十四、五センチの小さいものなのだが、鋳込み成形をしなくてはならない。 そのための粘土の撹拌器が必要だが、機械を買える時代ではない。 コンクリート桶を水槽代わりにしたり、金属の代わりに桜の木で撹拌の羽根を作ったり、いろいろな工夫をしなければならなかった。 ベルトやシャフトは宇都宮の古物商で手に入れた。 泥しょうのやわらかさ、石膏型の乾燥度、珪酸ソーダの使い方なども難しかったが、とにかく軍の割当を無事完納することができた。 資金に比較的余裕の出て来た昭和十年代道太郎は烏山町の亜炭山や那須黒田原の草炭に投資を始めた。 ヒョットコやサナを通じて取引のあったミツウロコなどの燃料会社とのつながりからである。 燃料の豆炭に混ぜて使用するつもりで四代目にあたる亀三郎が出向いていたが、実際事業化するには至らなかった。 ▲骨壺 <目次へ戻る> |
戦後 四代目 亀三郎 |
昭和十八年にはスギとともに隣地に分家したものの、幸内は依然ヤマニの番頭として道太郎を助け経営の舵を共に取っていた。
一方長男として大切に育てられた亀三郎(1918〜97)は、益子の主だった商店の子息が通う下館商業を卒業する。 その後乙種幹部候補生として軍隊に入隊し、近衛兵の曹長として長い間中国を転戦した後、益子にもどってきた。 従業員が道太郎、亀三郎、幸内のうち誰を親方とみるか混乱するのは当然であった。 結局道太郎は隠居し、昭和二十一年(1946年)幸内も本家とは別に隣地に大塚幸内商店を独立させた。 道太郎はその後、幸内とスギの長男である昌三に『折っ越窯』(おっこしがま)の名前を継ぐようにと言い残し、以後『折っ越窯』と言えば大塚幸内商店の製陶所のことを指すようになった。 戦後四代目亀三郎の時代になってからのヤマニは本業の他にいくつかの事業を立ち上げるが、その間二度にわたって不幸な火事に見舞われる。 一度目は昭和二十五年(1950年)六月の深夜近く、ひよこの孵化のための六寸練炭火鉢が原因で城内坂に面した母屋を全焼した。 幸い怪我人は出なかったものの火の回りが早く、先祖の位牌を始め何ひとつ運び出すことができず古くからのものはすべて灰になった。 その頃には以前五棟あったヤマニの細工場も一カ所のみとなり、昔からの従業員も少なくなっていたが、亀三郎は隣の増山製陶所が戦前から行っていた土管の製造を始めた。 隠居した道太郎ではあったが、他人のまねをするなど昔なら切腹に値すると大変憤慨したという。 当時は稲刈りをした後の冬の田は水を含んで大変ぬかるんでいた。 そのぬかるんだ田に排水用の素焼きの土管を埋め込むことで水を抜くことができ、二毛作が可能となるのである。 農家は農林省から補助を得て組合をつくり土地改良に励んだが、亀三郎が土管の製造を始める頃には近辺の土地改良はほとんど終わっており、ヤマニの土管の販路は茨城県が主だった。 原料の土は現在の『ほっとるーむ欅』の裏にあった斜面を掘り出して用いた。 その土を製管機で絞り出し、一定の長さに切ってからフチにソケットをつけて四寸径の土管を作るのである。 しかし土の埋蔵量も限られていた上、需要も一巡し、やがて土管製造は行き詰まった。 その後土管の土を利用してレンガを焼いていたのだが、昭和三十八年(1963年)一月、二度目の火災に見舞われる。 現在共販センターの本店事務所のある辺りにあったレンガ焼成用の半倒炎窯が燃えたのである。 窯焼き中に職人が目を離したわずかの間に、そばに積んであった燃料の松枝に窯の火が燃え移ったことが原因である。 幸い夕方の火災であったため類焼は免れたが、これがヤマニ大塚製陶所の最後の窯焚きとなってしまった。 当時まだ男女八人の職人がいたが、江戸時代より百年続いた窯の火が消えた。 すべてを見ていた道太郎ではあったが、益子の土でいかに耐火性のある燃焼器具を作るかを一人で生涯実験し続けていた。 無釉の益子焼きでも土管などは他の製陶所で作っていたのだが、あくまでもヤマニだけが作っていた燃焼器にこだわった。 以前取引のあった品川燃料に試作した燃焼器を持って行って実験をしてもらったりしていた。 最晩年は練炭を入れる燃焼器を作り、それをヒョットコ風呂に取り付けて風呂をわかす実験をしていたという。 昭和三十九年七十四歳で没。 その後も亀三郎はいくつかの事業を始めるが、いずれも長くは続かなかった。 まず畳表の製造。 数台の畳織り機を取り寄せ岡山から職人を雇い入れ、材料のい草も購入しての本格的なものであったが数年で終わる。 筑波にある採石場に投資してしばらく利益を上げたこともあった。 周辺の土地の切り売りも進む一方であった。 六人の子供に恵まれ親として大切にされ、晩年の亀三郎は決して不幸ではなかったが、長男として大事に育てられ過ぎたせいか経営者としては失格であった。 <目次へ戻る> |
大塚商会の設立 実 |
一方亀三郎より四歳年下の弟、実(みのる)は兄とは全く別の道を歩む。
旧制真岡中学を卒業後中央大学の予科から昭和十八年、太平洋戦争学徒出陣。 昭和二十年見習い士官として戦争末期のインパール作戦を生き延び、その後の二年間の収容所生活の後復員した。 帰国後しばらく滞在した益子は空襲も受けず外見上は昔のままだったという。 その後家族で親しくしていた牟田健作氏(牟田歯科医院)の紹介で東京の理研光学工業(現在のリコー)に就職する。 昭和三十六年三十八歳の時には大塚商会を設立。日本を代表するオフィス機器商社にまで育て上げる。 大塚商会は平成十二年には東証一部に上場。 八十五歳の今も公私にわたり幅広い活動を行っている。 しかし益子を離れたものの、実は実家の没落に心を痛め、ヤマニ大塚製陶所再興のために陰に陽に支援を続けてきた。 平成十七年にはこれからの益子のやきものの発展のためにと二億五千万円の私財を益子町に預け、『大塚実基金』を設立した。 <目次へ戻る> |
新生やまに大塚 善五 |
昭和四十六年癌に冒された亀三郎は長男善五を益子に呼ぶ。
昭和十九年生まれの善五は真岡高校を卒業後家業を継ぎ、一時筑波の採石場に出向いたりしたが、昭和四十二年から生家を離れてサラリーマン生活をしていた。 益子では昭和四十一年(1966年)、成井藤夫を中心に益子焼窯元共販株式会社(共販センター)がヤマニの隣地に建てられて、間もなく春と秋の連休を利用した陶器市が始まっていた。 亀三郎は昔とは違う、観光を兼ねたこれからの益子焼きの新しい販売の仕方を長男善五に示したのである。 善五は益子に戻り、翌昭和四十七年(1972年)十月二十九日、ヤマニ大塚をほぼ十年振りに再興した。 その際新しい店の名を『やまに大塚』とした。 叔父に当たる実からの援助を含めて資本金は三百万円。 一からの出発であった。 それから三十五年。 新生やまに大塚は『ギャラリー緑陶里』『ギャラリー暁』『本店ギャラリー』の三つのギャラリーを持ち、本店と『クラフトやまに』の二つの店舗、陶芸教室、『食事処やまに』『ほっとるーむ欅』の二軒のレストランをもつ益子で有数の卸小売業に成長したのである。 <目次へ戻る> |
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